ジャン=ミシェル・バスキア

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ここでは、簡単な略歴を紹介致しますが、知っているとマニア的な情報です。

 

まずは、バスキアの誕生日です。

 

誕生日:1960年12月22日

 

本日2019年11月16日時点で、生存していたとすると、58歳で、来月60歳の年齢。
バスキアは、27歳で短命を終えた。

 

死没月日:1988年8月12日

 

国籍:アメリカ
表現媒体:絵画、グラフィティ、音楽
ムーブメント:グラフィティ、ストリート・アート、新表現主義

 

バスキアは、27歳で亡くなったアーティスト、ジャン=ミシェル・バスキアの伝記映画。
1996年制作、監督はジュリアン・シュナーベル。

 

転載元:Youtube「バスキアのすべて(予告編)」

 

ベニチオ・デル・トロはこの作品でインディペンデント・スピリット賞の助演男優賞を受賞した。
バスキアと以前バンドを組んでいたヴィンセント・ギャロがカメオ出演している。

 

1979年のニューヨーク。黒人青年バスキアは「セイモ(SAMO)」と名乗り、バンド活動もするマイナーな画家だった。
彼はドラッグを吸い、ホームレス生活をしているが、スラム育ちではなく中流の家族を持っていた。
母親は、幼い頃のバスキアに絵画への興味を植え付けたが、離婚後は精神病院に入院していた。

 

ウェイトレスで画家志望のジーナと親しくなり、彼女のアパートに転がり込むバスキア。
画廊で電気工事のアルバイトをしたバスキアは、人気アーティストのマイロを見かけて声をかけ、虚勢を張った。
若いバスキアは、アーティストとしての成功を熱望していたが、売れなければ目の前の電気技師のように、「本業はアーティストだ」と自分に言い聞かせながら、年老いて行くはずだった。

 

ある日、バスキアはアンディ・ウォーホルを見かけて、自分の手書きのポストカードを売りつけた。
落書きのような絵(グラフィティ)をモチーフにしてスプレーを吹き付けるのが、バスキア独自の自称「無知な絵」のスタイルだった。

 

パーティーの帰りに、バスキアは美術評論家のルネ・リカードに声をかけられた。
バスキアの絵が気に入ったルネは、彼の売り出しに乗り出した。

 

1981年、グループ展に出品したバスキアの絵は2000ドルで売れた。
画廊を営むアニーナ・ノセイは、バスキアにアトリエを提供し、次々と大作を製作させた。金と名声を手に入れて、マイロとも友人になるバスキア。
だが、ジーナやバンド仲間のベニーとは疎遠になっていった。

 

初の個展を開く頃には、バスキアはアンディ・ウォーホルとも親しくなっていた。
大物の画商ブルーノ・ビショップバーガーに協力を申し出られたバスキアは、彼に乞われて、ルネに贈るはずだった作品を売ってしまった。
個展の後の食事会でも、バスキアは恩人であるルネやアニーナの席ではなく、大物たちのテーブルを選んだ。後年のインタビューで「人に利用され、利用している」と語るバスキア。

 

孤独なバスキアは、ウォーホルだけを友として親交を深めて行った[2]。ウォーホルとの関係をマスコミに揶揄され、悩みをマイロに打ち明けるバスキア。
そんな時、ウォーホルが急死した。バスキアのドラッグ吸引は加速し、翌年の1988年8月12日にヘロインの過剰摂取で死亡した。27歳だった。

 

 

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