バスキア・ライフ・イン・ジャパン|Jean‐Michel Basquiat’s life in Japan

ファッション

バスキアのファッション

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Basquiat fashion

 

ロンドンで回顧展が始まるジャン=ミシェル・バスキア。
いま振り返っても、彼は実に素晴らしいファッションセンスの持ち主だった。

 

アート界に彗星のごとく現れ、27歳でこの世を去ったバスキア

優れたファンションセンスを持ち合わせていないアーティストの名前を挙げるのは、極めて難しい。

 

たとえばデヴィッド・ホックニー。
原色のニットタイとパステルカラーのラグビーシャツ、その間にはぼろぼろのつなぎ目。
このセンスは比類ないものだ。ヨーゼフ・ボイスも同様で、フルクサス(1960年代に一世を風靡した前衛芸術運動)の一員だったこの芸術家は、フィールド・ジャケットとソフト帽にいかにもドイツ的なエプロンを合わせるという離れ業を見事にやってのけていた。
また、裾を折り返したジーンズにワーク・ジャケット、吸いかけのくわえタバコというスタイルで、ジャクソン・ポロックの右に出る者はいない。

 

しかし、“スタイル”という点で他のアーティストがまったくかなわない芸術家がいた。

 

それが「ジャン=ミシェル・バスキア」だ。

 

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1980年にニューヨークのあるレストランでアンディ・ウォーホルに“見い出された”ドレッドヘアの絵描きは、見る者の目を焼き尽くすような新表現主義の作品でアート界で一目置かれる存在となり、自分の仕事に対する妥協のないアプローチで絵描き仲間の心をつかみ??「私は評論家の言うことになど耳を貸さない。
アートとはどんなものかというのを見つけ出すのに評論家を必要とする人間など私は一人も知らない」とバスキアが口にしていたのは有名な話だ。
そして他人が真似できないスタイルでファッションの世界からも注目を浴びた。

 

バスキアはアートに関する正規の教育を受けたことが一度もなかった。
彼は、1970年代後半から80年代前半にニューヨークで活動した落書きアーティストの集団「SAMO」のなかで腕を磨いたのだ。
そして、作品に見られる頑固なナイーブさは、彼のワードローブにも反映されていた。
たとえば、いかにもプレッピー風なオックスフォードのボタンダウンシャツを着ても、襟のボタンは外したままで、それにガリ勉っぽいピーナツ色のニットタイを結んだりしていた。
オーダーメイドで知られる高級ブランドで買っただぼだぼのスーツを着て、しかも裸足で絵を描いたこともあった。
薄汚れた体育用のTシャツの上に、賢そうにみえるアイビーリーグ風のブレザーを引っかけるといういでたちのこともあった。
他の有名人が着たらステータスが下がってしまいそうなすり切れたコートを着ながら、それでもなぜだかロックスターのようにみえたこともあった。

 

バスキアはマドンナとベッドを共にし、キース・ヘリングとは友達で、マンハッタンにある人気レストランのミスター・チャウでシャンパンカクテルを浴びるほど飲んでいる姿をよく目撃されていた。
1987年にはコム・デ・ギャルソンのコレクションでモデルを務めたこともあった。
その時に彼が身にまとった2着のグレイのスーツはどちらもオーバーサイズで、ほかの人が着たら馬鹿げたものにしか思えなかっただろうが、バスキアならそんな着こなしもエレガントに見えた。

 

バスキアには常に相反する要素が混在していた??都会的な洒落者であり、同時に、インチキくさい新参者でもあった。
彼は相手をビビらせるほど格好よく、100%スタイリッシュで、さらに自分が何をやっているかを正確に理解していたとピーター・ヨーク(作家、ジャーナリスト、テレビ番組制作者)は述べている。
「バスキアは明らかにルックスも良かった」とヨークは言う。

 

 「彼はとても洗練された人間で、洗練されたゲームを楽しんでいた。
彼は典型的なミドルクラスの家庭で生まれ育った(父親の職業は会計士だった)が、それでもブロンクス出身の人間という役割を演じていた。
バスキアは、洗練された人々が洗練されていない事柄をどう見るかを、とても洗練されたかたちで理解していた。
その事柄のなかには“自分”という存在も含まれていた。だから、バスキアはインタビューの相手や状況の扱いを心得ていた」

 

「バスキアの存命当時、ニューヨークはまだダウンタウンとアップタウンの区別がはっきりしていた。
エリアの違いとそこで生活する人々のクラスや職業の違いも、現在のそれとは大きく異なっていた」とヨーク。

 

 「当時は、バスキアのようなダウンタウンで暮らすアーティストが、アップタウンの人々に対して、トム・ウルフ(作家、ジャーナリスト)のいう『アパッチダンス』をしてみせ、『資本家も社交界の人間も、そんな奴らの出入りするアートギャラリーもくそ食らえ。
オレはお前らの価値観など受け入れない』などと口にした上で、後になって『いっしょに連れて行け』とこっそりつぶやく……そんな時代だった」(ヨーク)

 

 「当時のアーティストは、アパッチダンスをもうそれ以上踊れないというところまで踊り続け、アートギャラリーのオープニングにはどんなものでも顔を出していた」とヨークは笑う。
「バスキアの振る舞い方や服の着こなし方などは、いずれもよく考え抜かれたものだった」

 

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衣装デザイナーのジョン・ダンはバスキアのスタイルについて「レトロとヒップホップ、プレッピー、それに神聖なインスピレーションがミックスされたもの」と表現している。
ダンはエミー賞にノミネートされたこともある人物で、ジュリアン・シュナーベルが監督した1996年の映画『バスキア』では衣装デザインを担当した。
なお、この作品では主人公のバスキア役をジェフリー・ライトが、そしてメンターであるアンディ・ウォーホル役をデヴィッド・ボウイが演じていた。

 

 

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