バスキア|Jean‐Michel Basquiat とは?
1960年、バスキアは、米国ニューヨーク・ブルックリン生まれで、父はハイチ人で母はプエルトリコ出身。
プエルトリコ系移民の母親とハイチ系移民の父親の間に生まれ、バスキアは幼い頃から絵を描き、芸術的な活動をするように母親からバスキアは奨励されていた。
1977〜79年、マンハッタンのストリートでアル・ディアスとSAMOcの名で手掛けた詩的なグラフィティで名を馳せる。
17歳の頃から地下鉄、スラム街地区の壁などにスプレーペインティングを始める。
活動を続けるうちに高校を中退したバスキアは、Tシャツやポストカードを売りながら生計を立てていた。
徐々に彼の描いたスプレーペインティングは評価され、キース・ヘリング、バーバラ・クルーガーの助力でニューヨークで個展を開くようになった。
また、バスキアの絵の中に描かれる王冠は彼のトレードマークとなっている。
一時結成していたノイズバンド「GRAY」の名は交通事故のさい母親が病室に持ち込んだ本が由来している。
1980年、伝説的なグループ展「タイムズ・スクエア・ショウ」で絵画作品を初めて展示。
1981年には「ニューヨーク/ニューウェーブ」展に参加。
同年、ガレリア・エミリオ・マッツォーリ(イタリア/モデナ)で自身初の個展を開き、翌年には、アメリカで初となる個展をアニナ・ノセイ・ギャラリー(ニューヨーク)で開催、評価を確立し、経済的成功を収めた。
1982年には最年少で国際美術展「ドクメンタ7」、1983年に現代美術の特別展「ホイットニー・バイエニアル」参加。
1983年にはアンディ・ウォーホルと知り合い、作品を共同制作するようにもなる。
1987年のアンディ・ウォーホルの死まで2人の互いに刺激しあう関係は続いたが、バスキアは徐々にヘロインなどの薬物依存症に陥り、妄想癖が見られるようになった。
そしてウォーホルの死によりさらに孤独を深めると共に、ますますヘロインに溺れていった。
アンディ・ウォーホル、キース・ヘリングなど当時を象徴するアーティストと交流を深め、80年代のニューヨーク・ダウンタウンのアートシーンで旋風を巻き起こした。
1988年、ヘロインのオーバードースにより27歳で死去。
わずか27歳で悲劇的な死を遂げた。