バスキアのシンボル「王冠」
Basquiat crown
スタジオでのバスキアは、ほぼ毎日ノンストップで絵を描いていて、壁にはつねに10作ほどが立てかけてあり、数日間は寝ないで仕上げていたという。
テレビは始終つけたままで、ステレオも大音量でジャズのレコードが鳴りっぱなしで、チャーリー・パーカー、ケルアックやバロウズといったビート族から影響を受け、解剖図や歴史書を片手に直接キャンバスに描き写した。
床に置いたキャンバスの上を素足で歩き回り、わりと大柄だったバスキアは、独特の姿勢で身体をつねに動かしながら即興的に大量の作品を生み出していったという。
そのように身の回りや日常の出来事、テレビのアニメや音楽をインスピレーションの源としながら、それを様々な角度から料理するように制作するのがバスキア自身ののやり方だった訳だが、完成していた作品でさえも、数日後にはすべて塗り直されていたこともざらにあったという。
Jean-Michel Basquiat Fair Use max resolution: 2098x1581px
また、どうしても気になっていた「王冠」のシンボルがどこからきたのかも知ることができた。
アメリカのテレビ番組『リトル・ラスカルズ』に出てくるバックウィートという黒人の男の子の「王冠」のようなファンキーな髪型が子供の頃からの大のお気に入りで(バスキアもその髪型そっくりだった)、影響を受けた絵は?と聞かれると「3?4歳児が描くもの」と答えていたそうだ。
アートに関する知識があふれるほどあったことを考えると、そのはぐらかし方はどこかウォーホルの影響を感じたりもする。
なぜならウォーホルとの出会いこそが、バスキアにとってアーティストとしての先行きを決定付けることになったといえるからだ。
存在、生き方、考え方、スタイル、人脈など、すべてにおいてバスキアの憧れだったウォーホルこそ、アート界の象徴的なキングととらえていた節もあるほどだ。
1983年頃、ウォーホルと知り合ったバスキアは、その数年後には共同で絵を制作するまで親しい間柄になっていたのだが、このことはバスキアにとっては大きな出来事だったに違いない。
故に、この二人の仲が暗礁に乗り上げたまま、先にウォーホルは逝ってしまったことで、バスキアは孤独感を深め、精神状態も不安定になり結果的に命を落とすことになった。
短略的に聞こえるかもしれないがこれはまぎれもない事実だろう。
白人至上主義の現代アート界のコアな部分にたったひとりで入り込み、若さと才能だけで独自のアートの領域を築いていったジャン=ミシェル・バスキア。
結局、バスキア自身が心から待ち望んでいだアート界の王冠をかぶることになるのは、バスキアが亡くなってからかなりの年月が経ってからになってしまったという訳だ。