バスキア・ライフ・イン・ジャパン|Jean‐Michel Basquiat’s life in Japan

家族関係

バスキアの家族関係

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Basquiat family relationship

 

1960年12月22日、ニューヨーク州ブルックリンの中流家庭に生まれた。
公認会計士の父はハイチ出身、母はプエルトリコ出身。
母は幼い息子をニューヨークの美術館によく連れて行った。
プエルトリコ系移民の母親とハイチ系移民の父親の間に生まれ、幼い頃から絵を描き、芸術的な活動をすることを母から勧められていた。

 

7歳のとき、車にはねられ入院、脾臓を摘出。
入院中に母が贈った『グレイの解剖書』の図版はその後の作品の重要なモチーフとなる。
その年両親が離婚、バスキアは二人の妹とともに父親に引き取られる。

 

17才の時に友人とインチキ宗教を生業とする、架空のキャラクターを創り出し、ダウンタウンで署名入りの詩的な落書きをして知られるようになる。
その後、ハイスクールを中退し、家を出てその日暮らし、手作りの絵葉書や、Tシャツを売ってお金を稼いでいた。
やがて、マッド・クラブやクラブ57の常連となり、バンド<グレイ>の活動を経て、大規模なグループ展「タイムズ・スクエア・ショウ」に参加。

 

美術界に足を踏み入れたバスキアは、画商、ギャラリスト、評論家そしてアンディ・ウォーホルらに認められ、絶大な人気と不滅の栄誉を確実なものとする。

 

ウォーホルの死後、バスキアは、ドラッグの量が増え、奇行や妄想壁が目立つようになった。

 

1988年8月12日、薬物ヘロインの過剰摂取により死亡、享年27歳。

 

 

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